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あなたたちはテントを立てて、私たちはマダンにむしろを敷いて・・・

4/9 ハンギョレ新聞記事(日本語訳)より

 

 

公園にテントで公演場をつくって80年光州・原発事故などを呼びおこす「消された人たち」が話をする場

「私たちは場所に意味を与えるのではなく、場所から意味を与えられるのだと考えます。なんでもないような空間にも、そこにだけ積み重なってきた歴史があるじゃないですか。「見えないけど何か知らないものがここにある」と見るってことですね。」

さる6日、光州市518記念公園では青色の大型テントが新たに建った。高さは6メートル、横に20メートル、300名が座れる巨大なテントの中では、韓国語と日本語がごっちゃに出てくる独特な公演が展開されていた。日本のテント劇団「野戦の月」「独火星」と光州に拠点をおき活動するマダン劇団シンミョンがともに準備した演劇「野火」だ。

演出家の池内文平(59)によると、公演の一隅、あいていたマダンはそれ自体で演劇を可能にする存在の根拠になった。公演の前、強風によりテントを二度にわたり建て直さなくてはならなく、夜の7時から10時まで続いた演劇の本番のときにも花冷えにおそわれた。しかしマダンの中のテントに三々五々あつまった観客70名は、ひざの毛布と横の人の体温を燃料にして3時間のあいだ、俳優とともに泣き笑った。

全4章で構成された演劇は時空間を超越し存在する「歯車のように消耗される人びと」を呼び出す。地下700メートルの炭鉱に閉じ込められたチリの鉱夫、危険を顧みず原子力発電所で仕事をする日本の労働者、1980年光州で活動した「野火夜学」の人びと、一日中立ち仕事をするキムパプ屋の店員、日帝強制占領期に日本軍に徴収されインドネシアに行き現地独立軍に引っ張っていかれた朝鮮人「梁七星」まで・・・。一度に集まることのできないかれらが、テントの中であつまり対話し、ともに踊り歌う。少年「ウリ」はなにも書かれていない地図をもってこの人物たちの記憶にそって旅行する。日本人俳優は自然な日本語で、シンミョンの団員たちは濃い全羅道の方言でそれぞれ話をするが、言語の壁はない。みなお互いの言葉を理解する。観客のために日本語のセリフのときに韓国語字幕が出るのみだ。

「野火」の人物たちは、特別な脈絡なく登場し、消えていく。各自記憶を話しながら、長いセリフを吐き出すが、それぞれの記憶は簡単な言葉で整理されはしない。しかし際限なく脈絡を破壊し意味を解体しながら、到達した最後の場面で恍惚の境地を味わえる。脳性まひの青年は輝く火の下に白い紙の花びらをあびながら美しい動きを広げる。かれは踊りながら「私がここにいる」と言う。演劇はバラバラに散った記憶の破片を集めたのちに、最終的に「この場、存在」を刻印する。

「野戦の月」と「独火星」は1983年から30年近く日本の東京を中心に活動してきた。「野火」を書き、演出した池内文平と出演俳優桜井大造がともに「風の旅団」という劇団をつくって以来、分かれたりくっついたりを重ねながらいままで命脈を保っている。大衆劇よりも従軍慰安婦、天皇制などを前面に扱う作品を作り、日本現地の演劇界ではたびたび論争を起こす。

運営方法も特異だ。俳優・スタッフはみな稼ぎのあてをほかに持っている。新聞社文化部記者出身の池内は出版業界のフリー編集者だ。ほかの団員も雑誌寄稿、放送局小道具担当など、職業を持っている。かれらは自費を割いて劇を準備し、日本各地、台湾、中国などで招聘公園もした。公演ごとに毎回違う場所にテントを建てる。演劇がおわったらテントは痕跡無く解体される。韓国公演はさる2005年以降はじめて。劇団は韓国の518民主化運動に対し深い関心を持っている。池内は「おそらく当時の韓国よりも日本のほうがより多い情報がはいってきただろう」と言い「同時代の光州を経験した」と言う。「野火」という題目も「70年代末光州に「野火」という夜学運動があった事実と80年518抗争直前に光州市の全羅道庁前にたいまつを燈しデモしたことに着眼しこのような名前をつけた」と言った。ソウル公演は11日12日光化門の市民ヨルリンマダンで開かれる。ソーシャルファンドサイトのトンブルブックで事前で参加申請をすればいよい。( 朴ボミ記者)

 

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