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『八つの破片——ハンガリー音楽に伴って踊る』をめぐって
文:呉思鋒
演出:流民桟、Ryuseioh Ryu(龍)
時間:2018/03/25 16:00
場所:楽生院蓬莱舎

 踊りのソロは一人で踊るものだけど、必ずしも「自我」につながるものとは限らず、むしろ他者につながるための契機を含んだりする。ふだん倉庫として使われる楽生院蓬莱舎の狭い空間の中でRyuが一人で踊っている時、多くの人と一緒に踊っているかのようにぼくに感じた。Ryuの掌の中から、一つ、一つ花が咲いてくるようだった。
 Ryuの第一歩は、右上の窓から入ってきたのである。体に障害を抱えている踊り手の場合、観客は彼が表現空間に入ってきたその第一歩から、懸命に見つけようとする。それは奇観の始まりであり、奇観が生命政治的な身体の景観に展開する始まりである。Ryuが選んだ第一歩は驚くべきものに違いなかったが、空間の中心にしっかり立ってからの彼はさっそく表現の空間を、物理的に限られた場所から、体の動きと意志の広がりによって踊り手の複雑な精神世界へと集中させた。ハンガリーの民間音楽は陽気に反復されていく。彼は時には嬉しそうに手足を動かして、まるでカメラに向かってのポーズ取りやパーティーに参加している様子だったり、時には虫のように地面を這っては片足を戻して、唾が飛び出るほど踊りまくったり、しばしば体の限界を超えようとする。そして何より重要なのは、彼の眼差しはずっと腕に沿って前へ、外へとの伸びていく。まるで形の見えないカラフルな世界が彼の眼の前に広がっているようだ。カラフルな世界が実際にあるかどうかは重要ではない。重要なのはソロの踊り手は舞台の上でカラフルな世界を作り上げ、踊りの想像力をもって、「人間」的な手触りを観客に感じさせることだ。
 もしかしたらRyuのような身体障害者は生まれた時点から、さまざまな社会制度的排除との格闘、「私が他者にさせられる」こととの格闘を始めていたかもしれない。
「八つの破片」はそれらの制約的、抑制的生命政治を、踊りを通じてひっくり返した。
体の障害を抱えているRyuにおいて、ソロの「絶対的孤独」は人と人との通じ合えなさを反映しているが、その否定性から出発してはじめて、我々にはつぎのことが見えてくる。
Ryuの踊りは「自己的」に見えても、じつは
「他者」から出発した踊りだということ。
ここでいう「他者」とはただ「他人」を意味するだけでなく、さまざまな「その他」を意味しているということ。
彼は楽しく踊りながら、苦を引き受けて存在している。あるいはこう言い換えよう。苦を引き受けて存在しているからこそ、彼は楽しく踊り続けるのだ。
終わりに近づいた時、彼は喜びの動作を終わらせて、座り込んだ。
抱えた膝の間に頭を埋めた。
音楽は突然幽霊的な音効に変わり、暗闇の夜に響く風音のように聞こえてくる。彼の後ろにある半アーク型の背景、泥と紙とプラスチックで作られた暗闇の森にようやく明かりがついた時、私は王心運が「エマニュエル・レヴィナスが純粋的存在経験(ilya)を論ずる」という論文の中で触れた、エマニュエル・レヴィナス(Emmanuel Levinas)が子供時代にひとりぼっちになった時の思い出を思い出した。「子供は一人で眠り、大人はほかのところで忙しくしている。子供には寝室の静けさは囁きのように聞こえる。」そして彼はこう書き続けた。
「暗夜に満ちた静けさとは、聴覚で把握できないような無声ではない。静けさ自体は事実として囁いている。
それに、暗夜とは白日の不在である。」
 「囁き」は風の音のようであり、「静けさ」は暗夜のようである。
踊り手は恐怖のために頭を膝に埋めたのではない。彼は楽生院に漂っている残響をもふくめた「その他すべて」の音を、深くしっかり聞き取ろうとしている。そこに生まれた脆弱な関係性は、膝に頭を埋めた踊り手の動きに再度表現されている。
Ryuの踊りは我々につぎのことを気づかさせた——ここ「他者」の意味に満ち満ちていた楽生院においてこそ、我々は「生きる」ようになり、そして喜びの踊りの中において、他人の顔と見つめ合えるようになる。翻訳含氷
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